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2006年01月23日

「悪態日記」に愛をこめて

さらば愛しの「悪態日記」-もしくはクック・ロビンを殺したのは誰なのか?
先週の17日を以って、sahyaさんの「悪態日記」の幕が遂に下りたようです。
(17日のエントリーはこちらです)
幕が下りたと云っても、まだ残っているから、未練がある方は幕をめくって覗いてみるといいよ。
そこには、今もなおキラキラ輝いてる文章や、かってインスパイアされたワードの数珠や、
哀しい事や、バカなことや、恥ずかしい事を見つけ出せる筈ですから。
で、sahyaさんの恥ずかしい記述を見つけたら、こっそり僕に教えるといいと思います(笑)
予めその日を迎えるために「悪態日記」を拙リンクの先頭に位置しておいたのだけれど、
もうしばらくは、そのままにしておこうかと思います。
本当は、それだけにしておいて言及はしないでおこうと思っていたのだけれど、やっぱ書かずには
いられませんでした。影響力、アリアリですね。
ちょっと残念で、一抹の寂しさは覚えるけれど、sahyaさんがsahyaさんらしくあり続けるための
決断だろうから、僕は支持するし、彼女の事はよく知ってる訳ではないけど、余り心配はしてません。
問題は「悪態日記」の読者であった我々がどうあり続けるかってことかと思います。

「好きなものについて、好きなように、好きなだけ書く」
sahyaさんがポリシーとして掲げられていた命題ですが、これはブロガーの誰が云っても不思議ない
ごく当たり前のことで、かつ誰もが多少なりとも、その難しさを痛感していると思います。
でも、これはsahyaさんがぶつかるから意味があるわけで、僕のようないいかげんな奴が
ぶち当たってもさほど重みがありません(笑)
真摯な姿勢の方ほど高くそびえる壁となり、ましてやページヴューやブックマークが増えるほど
その締め付けは苦しくなってくるものなんでしょう、きっと。

さて、17日のこのエントリーで彼女が明示した『ただ1個だけの具体的な「理由」』については、
ショックを受けられた方も多いみたいだし、センセーショナルに受け留められているけれど、
僕自身は、さほどその件については重要視していません。
アーティストがオーディエンスに向かって「愛情がない」って云う事はないでしょ。
己の無力さをさらけだすことになるから。
当時のsahyaさんのエントリをよく読めば、あっこちゃんだって「わたしはいいけど」で済ましてる。
そりゃそうだろ、彼女はそんな小さな器じゃない。けど、大きすぎて自由奔放すぎるフシはある(笑)
かっちりしたセットリストは、様式美と云ってそういう世界もあるんだよと、云ってあげたい。
水戸黄門は毎回同じ時間に印籠を出すし、隠密同心は隠密なのに並んで歩くのだから。
スプリングスティーンは、初来日のオープニングに「ボーン・イン・ザ・USA」を演奏した。
日本公演期間中、それは変わらなかった。この曲をアメリカで演るのと日本で演るのでは、
大きく意味が違うと思うけどそれを貫いた。けど、僕は失望したりしなかったよ。
まぁ、彼のセットリストは日々少し変わる部分が非常にエキサイティングなんだけど。
あ、そんなことは問題じゃないか。
とにかく、後はネタバレの問題だけで、ネタバレの表記の仕方に愛情が関わってくるのだと
思います。対象のアーティストだけじゃなく読者に対する愛情も含めてね。
でも、セットリストよりMCのネタバレの方がアーティストにとっては厳しいだろうなぁ。
「あ、また同じ事を言ってるよ」ってのが(^^;

で、文責における概念なんだけど、物書きであれ、ミュージシャンであれ、役者であれ、
お笑い芸人であれ、およそ表現者たる者は、すべての人を幸せに出来るものではなく、
自分が幸せに出来るであろう人々に向かって表現を投げかけていくものだと僕は思っています。
その表現方法に人として最低限守らなくてはいけないモノが存在するのはわざわざ言う必要も
ないほど当たり前の事です。(誹謗とか中傷に当たる部分ですね)
自分の好きな作品を、他人が「これはこの部分が面白くない。出来が良くない。」と批評して
いたら誰でも気分の良い話ではないかもしれないけれど、だからと云って、傷ついたとか、
ネット上に書くことじゃないとか吼えるのは、浅薄で愚かです。
世の中から評論とか批評と言った文化が消えてなくなります。
異を唱えるのに遠慮は要りません。もし論旨が取り付く島もないほどかけ離れていたら、
無視するのが賢明かと思います。多分、相手はバカですから(笑)
僕は評論家に大嫌いな奴が多いけど、それも商業ベースに乗っ取った厭らしさがミエミエなのと、
自負心を満足させる為だけに論旨を展開する人が多いからであって(僕もそうだけど)、評論という
行為を賤しめるものではないと思います。評論家の中に貴賤があるだけの話だと思っています。
話を元に戻すと、例えばミュージシャンが作品を発表して表現した時に、たとえ大多数の支持を
得られたとしても、傷つく人も少なからずいるのです。例え万感の愛情を込めた作品であっても。
僕だって、何回「こいつを殺して俺も死ぬ」と思ったことか(笑)それを実行したらチャップマンか
「オレのロックじゃない!事件」の野郎になっちまうからやらないけどね。
要するに表現者たるものは、ジョン・レノンであれ、素人のモノ書きであれ、他人を傷つけないで
いられる筈がないと僕は思っているのです。
それでも書きたいから書く。全ては「オレの話を聴けぇ!」の為に。何が悪い?(開き直り)
ぐだぐだ、つまらないことを書き連ねて申し訳ないのですが、こういうことをsahyaさんなら、
すっきりまとめて書けるんだろうなぁ。多分、僕が云いたい事もこれだけ言葉を並べる必要もなく
皮膚感覚で理解してくれてると思います。でも、それだけじゃいけないんだよって彼女の声が
聞こえる気がします。解ってても、傷つく人がいてはいけないんだと。

僕は最近の「悪態日記」を読むにつれて、真剣に意見を述べようとする時の彼女の手続き部分を
痛々しく思っていました。ENVIRONMENT DIVISION(環境部分)の宣言が必要なんですよ。
場合によってはIDENTIFICATION DIVISIONから必要だったり(笑)
無意味に人を傷つけないでおこうという、彼女の優しさゆえに。
でも、それはものすごく労だと思うのです、僕は。僕にsahyaさんの何が解るかって云われれば
それまでですが、僕はそう理解しています。
あとね、文責を真摯に全うしようとすると、追記の追記が必要になってきます。
彼女は理解を強制的に求めようとはしないけれど、誤解によって新たに他人が傷つく事だけは
避けたいんじゃないかと。ほんと律儀です。

僕も多くの方と同様に、そんな「悪態日記」が好きでした。感謝してます。ありがとう。
「悪態日記」が終わったからと云って、sahyaさんがいなくなる訳ではないし、油断してると
公共の電波や、紙のメディアを使っていつ攻めてくるかもしれません(笑)
でも、あの「はてな」の更新が止まる事実は、日常にぽっかり穴が空く気分です。

駒鳥を殺した雀を誰も責めようとはしませんでした。
だからと云って僕は牧師も出来ないし、松明くらい持てたらいいんだけどなぁ。無理です。

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コメント

IWAさんのエントリーと続けて読むと、一層深く考えさせられました。 取り巻く環境の重さがsahyaさんよりも格段に軽いですが、「これで良いのか?」と問うてしまうことが私にも何度もありました。 理性も文章力もなく書いているのでなおさら(苦笑) その度に「十人十色じゃ。 たった一人の感想も意見も受け止められず流すことも出来ない側が未熟」と自分を正当化して続けてきました。 「今までのまま思うままに書いてください」と創り手の一人に頂戴した言葉の温かさをかみしめつつ。 
知らない誰かが不快になったり傷ついたり…そんな可能性を常に自分の片隅に置いておくことが大事だと改めて刻み込むことが今回出来ました。 こうした葛藤が私によぎらなくなったら止めなくちゃいけないなと思ってます。
長々と自分語りでスミマセン。

かずぅさん、ありがとうございます。
文章を書くにあたり、それなりの自覚と覚悟は要ります。
それはsahyaさんと同じでなくてもいい訳です。
でも、考える貴重な機会をくれたのは彼女です。

私も密かに、sahyaさんの日記の大ファンでした。
何度も何度も、最後のsahyaさんの文章を読み返していろいろと考えました。
無責任にキモい日記をさらけ出していた自分のことも。
(まったくもって比較の対象にはなり得ませんケドも。)
sahyaさんの文章を読む前に停止しておいた事は、唯一の自分への救いです。(笑)

それにしても、責任を持ってきちんと書かれている方ほど、
さらに言葉と向き合うことを選ばれるんですね・・・・・。
自分の気持ちを言葉にしようとする今でさえも、うまく思い浮かばない私。・・・無力感。

ネッシさん、ありがと。
僕が、どーしてもリンクさせてもらえなかった日記なのに、止めた途端にメチャ強気やな(笑)
えっとね、こうやって気付かないところで、紡ぎ紡がれてるんですね。
比較とか無力感とかの問題じゃないですよ。で、いつ再開するの?(笑)

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